| 原題 | Joker: Folie a Deux |
|---|---|
| 製作年 | 2024 |
| 製作国 | アメリカ |
| 監督 | トッド・フィリップス |
| 脚本 | スコット・シルヴァー、 トッド・フィリップス |
| 音楽 | ヒドゥル・グドナドッティル |
| 出演 | ホアキン・フェニックス、 レディー・ガガ、 ブレンダン・グリーソン、 キャサリン・キーナー、 ザジー・ビーツ |
社会的な内容で話題となった『ジョーカー』の続編は、ゴールデンラズベリー賞の「最低前日譚・リメイク・盗作・続編賞」を見事受賞。
本編の前提をアニメで説明し、陰気なアーサー・フレックが陽気なレディ・ガガと一緒に歌い踊るという常識破り(常識離れ?)の内容では致し方ない。
欧米の映画監督がいつかやりたくなるのがミュージカル。
『シェルブールの雨傘』を意識した冒頭のカラフルな傘のシーンは「ミュージカルで行くぞ!」の宣言。
でも、この映画の雰囲気とミュージカルって相性良いですか?
映画は、”アーサー・フレックとジョーカーは別人格なのか?” という問題を追及する。
前作『ジョーカー』に書いた通り、そもそもジョーカーとは “ずっと社会に存在していたものが、ある日浮き彫りになる” だけなので、別人格かは問題ではない。
だが映画ではアーサーを解放するためか、法廷モノの要素を入れてハラハラさせたいためか、しきりと “別人格” へと誘導する。
でも、結局は映画の結論のように、それは同一であって切り離せない。
もし切り離せたら「すべては精神疾患が原因だ」の一択なので、そんな単純な話ではなくジョーカーは社会全体の様々な要因から生まれるものなので、初めからそんなはずはない。
なのに、延々と妄想ミュージカルと精神疾患論に9割を費やすのは、ズレているとしか思えない。
話を聞く気は?ないよね?
煽って炎上させたいだけ。
僕の過ちを蒸し返し、過去の話ばかり。
今の僕の話は? 僕は変わったのに。
この映画で唯一心に残ったセリフはこれ。
メディアやネット社会の “切り取り” や “誘導”、”偏見”、”情報操作” を鋭く指摘したアーサーのセリフ。
ジョーカー=「無敵の人」は時代の寵児となり一部の熱狂的ファンに支えられるが、メディアによって薄っぺらく表面的に論評され、最後は法によって裁かれる。
でも一度世に出ればその行為を称える模倣者が多く現れ、そうなった後は最初の無敵の人は物理的には “使い捨て” 扱いとなり、単なる象徴へと変化する。
つまりは、そういった現象を描きたかったのだと思います。
それと、続編に対する誘惑が大きいことは分かりますが、続編を作らない勇気はもっと大切 だということを、多くの続編映画と共にこの映画は教えてくれました。
