| 原題 | Killers of the Flower Moon |
|---|---|
| 製作年 | 2023 |
| 製作国 | アメリカ |
| 監督 | マーティン・スコセッシ |
| 脚本 | エリック・ロス、 マーティン・スコセッシ |
| 音楽 | ロビー・ロバートソン |
| 出演 | レオナルド・ディカプリオ、 ロバート・デ・ニーロ、 リリー・グラッドストーン、 ジェシー・プレモンス、 ブレンダン・フレイザー、 タントゥー・カーディナル、 ジェイソン・イズベル |
アメリカ、石油、白人。
映画はネイティブアメリカンの小さな社会で描かれるが、この3つが登場すれば自然と “利権” と “犯罪” 絡みの映画になる。
だからFBI捜査官が主人公で、かつ、オセージ族の視点で書かれていた原作を変更し、マーティン・スコセッシ監督は犯罪者の白人一族を主人公に据えます。
スコセッシ監督は自身の映画で “昇りながら転落する男” の人生を数多く描いてきたので、そのテーマで考えると主人公の変更は自然と言えるかもしれません。
それでもオセージ族の視点、引いてはモリーの視点で描くべきではなかったのか?
そういう反論・批評が多く出ていますが、この映画に関わったオセージ族の関係者が言う通り、「それがベストだが、それはオセージ族の手で描かないことには無理だ」ということなのでしょう。
それはスコセッシ監督も充分に理解しており、だから映画は映画として終わらず、スコセッシ監督自身が出演して後日談として語られるのです。
殺人事件については何も触れられていない
新聞記事を引用し、モリーの “その後” を説明した後、最後のセリフはそう締めくくられる。
つまり、今まで目を背けていた史実に光を当てたが、映画ではそこまでしか描けなかった、と。
ちなみにあの場面は史実に沿っており、この事件が「ラッキー・ストライク・アワー」という生ラジオ番組で一般娯楽として消費されたことを批判すると共に、真実に向き合いきれていない点を自己批判する意味があったかもしれません。
それにしても、今回もスコセッシ監督らしい見ごたえのある映画でした。
制作時はもう80歳なので10年前の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のような推進力は見られませんが、テンポ・展開・描写に余計も無駄も無く、非常に観やすい映画に仕立て上げる能力はまったく衰えていません。
これが最後の作品なのか、もう1作くらい撮れるのか分かりませんが、「映画として残しておきたい歴史」というこの作品に懸ける意思を感じました。
“悪” とは何なのか?
金銭欲によって、民間人が民間人を殺すケースは多々あるが、ここまでの人数を集団ではなく個々人が手に掛けるというのは恐ろしい。
ある意味、国家的犯罪や犯罪組織より凶悪な動機・行動かもしれない。
更に恐ろしいのは、それが “裁かれない” という状況。
無法地帯化したのは、被害者が先住民族だったからだろう。
最終的に国家機関(FBI)の介入によって裁かれることになる。
それがせめてもの救い。
法は大事だし、それ以上に “悪事は裁かれる” という状況が大事だと思い知らされる。
現在、オセージ族に限らず生き残った先住民族はどうなったのか?
日本人にはほとんど知られていませんが、アメリカには「インディアン居留地」が幾つもあり、自治が認められているのはこの居留地だけになっている。
けれども自由は少なく産業も無く、貧困とアルコールとドラッグから抜け出せない居留地がほとんどで、結局は差別覚悟で外に出ていくしかないようです。
主演のリリー・グラッドストーン自身も居留地で生まれ育っています。
この辺りのリアルは、クロエ・ジャオ監督の『兄が教えてくれた歌』を観ると良く分かるかもしれません。
さて、スコセッシ監督といえば、これが6度目の主演となるレオナルド・ディカプリオ。
今回も下あごを突き出し、眉間に皺を寄せ、野暮な口調で話す、クド過ぎるほどの演技で映画に貢献しています。
(ベテラン俳優にしては安易すぎるアプローチという気がしますが、恐らく気のせいでしょう)
しかし、恐ろしい悪事を働きながら「いや俺は何も分かっていませんから」と振る舞える俳優を求めているなら、今回のレオナルド・ディカプリオはうってつけです。
それにしても、なぜこのような演技のアーネストにモリーが惹かれ続けたのかまったく理解できません。
モリーを演じたリリー・グラッドストーンは、ディカプリオとは対照的に抑えた素晴らしい演技でした。
中盤以降は苦しむ演技をしなければならなかったので、前半の勇気と知性と怖れを同時に隠し持った演技をもっと観たかったですね。
それにしても、何が起こっているのか・起ころうとしているのか予見するほど賢いモリーが、なぜアーネストに惹かれ続けたのか、やっぱり理解できません。
ロバート・デニーロは言わずもがな。
真の悪人は見分けられないという定説を証明するような、善人の皮を被った極悪人を最初から最後まで自然に演じています。
でも小さな社会の王様は国家レベルのFBIから見たら小悪党以下のゴロツキに過ぎず、デニーロといえどあっさり有罪になる。
そこはこの映画の救いでした。
