ミッキー17

原題 Mickey 17
製作年 2025
製作国 アメリカ
監督 ポン・ジュノ
脚本 ポン・ジュノ
音楽 チョン・ジェイル
出演 ロバート・パティンソン、 ナオミ・アッキー、 スティーヴン・ユァン、 トニ・コレット、 マーク・ラファロ、 アナマリア・ヴァルトロメイ、 パッシー・フェラン

『パラサイト 半地下の家族』で格差と社会を巧みに描いたポン・ジュノ監督。
これまでの作品でも “人間の悪” や、社会構造や国家組織の風刺を描いてきましたが、今回も “行き過ぎた資本主義”、”植民地主義”、”宗教の欺瞞” という社会的観点に加え、”人間とは何か” という根本的テーマまで盛り込んで描く。

マカロンはハンバーガーよりも売れる!
この間違いに気づかず主人公のミッキーは借金を背負い、地球外の植民地へ逃亡する。
資本主義社会において、資本を持たざる者は必死に働かなければならない。
ましてや借金を負った者は、命の危機にも晒される。
それが弱肉強食の競争社会、資本主義だから。

契約書は読まなくても大丈夫!
「契約内容はちゃんと確認したか?」と何度聞かれても “ハイ” と答えた結果、ミッキーは永久リサイクル可の消耗品になる。
未来の消費社会では、命はモノのように消費される。
記憶のバックアップもレンガ程度のデバイスがあれば十分です。

理想の王国を造るために、先住民はキルしましょう!
おバカな教祖に付き従う船員たち。
ポン・ジュノ作品が描く “愚かな人々” はいつだって分かりやすい。
異生物の尻尾は、もちろんソースの材料です。

クローンだからすべて一緒!
常に0歳から育てている訳ではないので、1体ずつ性格が違ったらクローンの意味がありません。
じゃあ、18号はなんで違うの?
これは映画の大きなテーマです。
つまり一人として同じ人はいない。皆、別々。クローンだって別人格。
そう考えた途端、”命は消耗品に成り得ない” ことは明白。

じゃあなぜナーシャは1~17号まで同じように愛せたのか?
それは謎ですが、イケイケの18号を楽しんだように人間の奥深さなのでしょうか。

恋愛にはライバルがつきもの!
途中で2度、カイという女性が登場しますが何も起きない。
あの中途半端な登場人物は何だったのでしょうか?
もっと重要な場面があったにも関わらず、編集でカットされたとしか思えません。
アナマリア・ヴァルトロメイ(『あのこと』の女優さん)だっただけに、個人的に “勿体ない感” が半端ではありません。

宇宙が舞台のSFといえば異星人!
とても魅力的な異星人。

あなたの家にもペット…いえ友人として1匹…いえ1人どうでしょうか?
植民地化を描くなら、どうしてもっと人間的な異星人にしなかったのか?
もしかして植民地化ではなく動物愛護を訴えたかったとか?

命というテーマや風刺したい対象は良かったですが、なぜこのような出来になってしまったのか?
それはシリアスを嫌い、ブラックユーモアを愛するポン・ジュノ監督だから。
ブラックユーモアも行き過ぎると “悪ふざけ” になる。
そのギリギリのラインを今回は踏み越してしまった感が否めません。
そして、「”強調し過ぎて似ていないモノ真似” のようなマーク・ラファロとトニ・コレットの演技が水を差した」説を唱えさせていただきます。 

 

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