| 原題 | Solaris |
|---|---|
| 製作年 | 1972 |
| 製作国 | ソ連 |
| 監督 | アンドレイ・タルコフスキー |
| 脚本 | アンドレイ・タルコフスキー、 フリードリッヒ・ガレンシュテイン |
| 音楽 | エドゥアルド・アルテミエフ |
| 出演 | ドナタス・バニオニス、 ナタリヤ・ボンダルチュク、 ユーリー・ヤルヴェト、 アナトリー・ソロニーツィン、 ソス・サルキシャン、 ニコライ・グリニコ |
ソビエトの名匠タルコフスキー監督による思索的SF。
タルコフスキーは自身を “エリート芸術家” と自負する高すぎるプライドを持っているので、この映画に意味を求めるよりは “芸術映画” として観るのが最適かもしれません。
だから映画内でもバッハの楽曲が使われ、ブリューゲルやセルバンテス、ダ・ヴィンチ、シャガールの絵が登場する。
タルコフスキー曰く「映画には伝統がないため、古典音楽や有名な絵画を映すことで芸術に不可欠なルーツを生み出すため」だそうだ。
とは言え、ここでは科学と哲学と愛に関するセリフから読み解ける意味を、自分なりに探ってみたいと思います。
既成概念を持って限界とすることは思考の無限性という理念に対する攻撃であり、科学の進歩を妨げ後退を促すことになる。
冒頭の会議シーンでのセリフです。
この段階では “既存の概念には限界がある”、”科学こそがその限界を突破できる” と、科学の優位性を主張します。
しかし、”思考する海” を持つ惑星ソラリスを長年研究しているが、理解はおろか意思疎通もまったく出来ていない。
人間は人間すら理解できていないため、そもそも宇宙の未知なる知性など理解できないのです。
この後、なぜか東京の高速道路が延々と映し出されます。
本当は大阪万博を撮影するつもりが許可が下りず、来日した際には万博も終わっており、しょうがなく高速道路を録画したらしい。
ルートは「宿泊先のホテルから黒澤明の事務所まで」だと、東京でタルコフスキーの訪問を受けた黒澤明が後に語っています。
そして宇宙船に乗ってあっという間に惑星ソラリスを調査する宇宙ステーションに到着する。
高速道路を5分間映し続けた後に、30秒でソラリス到着です。
地球上を移動する方がずっと長く、宇宙はあっという間。
つまり惑星ソラリスというのは “架空” で、地球上の話なんだと思わせる描写です。
宇宙ステーションで、研究者たちは “奇妙な体験” に陥る。
他の人にも見えるので実在しているが、本当に実在しているのか?
これは哲学の一領域である形而上学の “存在論” や ”同一性” を描いているのかもしれません。
・何をもって “存在している” と言えるのか?
・何をもって “同じである” と言えるのか?
ケルヴィンの目の前には亡き妻がいる。
・見えていれば存在なのか?
・何があれば存在と言えるのか?
・愛、感情、意識、人間性?
・生命の本質とは一体何なのか?
2000年以上、哲学で議論されてきた問いなので、考えたって答えは出ない。
この状況では天才も凡才も無力
そもそも我々は宇宙の征服など考えていない
地球を最大限に開発するだけだ
別の世界は感知しないし、する必要もない
必要なのは鏡だ
“コンタクト” など絵に描いた餅だ
求めながら恐れ、結局のところ要らぬ幻を追っている茶番劇だ
人間には人間が必要なんだ
終盤でのスナウトのセリフです。
・科学は宇宙では無力で、せいぜい地球をいじり回すだけ。
・別の世界の未知を恐れるより、鏡で自分を見た方が良い。
・人間は人間すら理解できていない。
という事を言っているのでしょうか。
冒頭では “科学は思考を無限にする” と息巻いていましたが、目の前の不可思議な事象に成す術が無く、科学は思考を停止します。
私は、人間になります。
感情だって、あなた方に劣りません。
これは終盤でのハリーのセリフです。
物理的な存在に加え論理的な感情まで備われば、”存在” し、”同一” であると言えるのでしょうか?
存在に対する明確な定義は出ていませんが、目の前の人間が架空でも、愛だけは確かに “存在” し、“同一” なのかもしれません。
罪の意識こそが人類を救うのだ。
ラストのケルヴィンのセリフです。
失った悲しみと愛を取り戻し、過去を悔恨し、この後ソラリスの海で故郷を再現する。
失踪したハリーに再び会うため、彼の心はソラリスに残ることを選んだのかもしれません。
科学者たちはソラリスを解析できませんでしたが、心理学者だけはソラリスを受け入れ理解した。
人間が生み出した科学は、人間を超えられないのかもしれません。
圧倒的に美しい驚愕の無重力シーンを含め、映像美と哲学が融合した偉大なSF映画でした。
↓無重力シーン
