ビハインド・ザ・サン

原題 Abril Despedacado
製作年 2001
製作国 ブラジル・フランス・スイス
監督 ウォルター・サレス
脚本 ウォルター・サレス、 セルジオ・マチャド、 カリン・アイヌー
音楽 アントニオ・ピント
出演 ロドリゴ・サントロ、 ラヴィ・ラモス・ラセルダ、 ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス、 フラヴィア・マルコ・アントニオ、 ジョゼ・デュモント、 ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス

母は言う
神は重すぎる試練は与えないと
でも神様も間違う
時に試練は重すぎる

日差しが照り付け砂埃の舞う荒野の只中で、貧しいブレヴィス家の親子と二頭の牛は、今日も巨大な歯車を回し続ける。過去の遺物のような機械は今にも壊れそうだが、100年以上も動き続けていたかのように今日も動きを止める気配はなく、永遠に続けられる儀式のようだ。少し離れた古木に括りつけられたブランコは、今日も少年を乗せて同じ場所を往復する。少年に名前は無い。名前は生まれて最初に授けられるアイデンティティだが、少年にはその名前すらない。
サーカスで生計を立てるクララは土地に縛られず、継父と共に放浪の旅を続けている。一見すると自由に見えるが、ロープの輪に手を縛り同じ場所をグルグルと回っている。彼女もまた、継父や貧困や旅芸人という偏見に縛られているのかもしれません。

やられたらやり返す
誰もが目を失うまで
全員が盲目なら
目のある人間は変人にされる

原作は第1回のブッカー国際賞を受賞したアルバニアの世界的文学者であるイスマイル・カダレの小説『砕かれた四月』。それをベースにサレス監督が舞台をブラジルに置き換える。ブレヴィス家とフェレイラ家の因縁は世界のどこにでも見られる怨恨と復讐の連鎖を象徴しており、両家の家長は過去からの因習と因縁に縛られた人々を指している。彼らの思考は完全に停止しており、家族・伝統・労働・命・復讐はすべて同じ価値観で語られ、組み合わされた巨大な歯車として円環運動を続けてきたのだ。そして子供たちの命より名誉を守ることを信条とし、名誉を守ることで未来を失っていく。世界を見渡しても、いつもどこかで続けられている不毛な復讐の連鎖は何も生まず、子供たちの未来を摘み取っているだけなのです。

名前のない少年に、旅芸人の男性サルスチアーノが “パクー” という名前を与える。そして娘が本という新たな世界を与える。少年は川魚を表すパクーという名前を気に入らないが、名前が与えられることで初めて、”何者でもない者” だった人間に “他人とは違う自分” としてのアイデンティティが芽生え、本の中の海の世界に想いを馳せる。パクーは子供ならではの純真さもあり、因習という固定観念に縛られていない唯一の存在です。そして次に殺されるべき兄を解放しようと、敢えてその身を犠牲にする。

行くんじゃない、奴はもう死んでる

私は生きてるわ

旅芸人の父娘の関係は微妙です。セリフの中で “継娘” とあるので血の繋がっていない親子ですが、トーニョに対するクララの姿勢にサルスチアーノは心配を超えた嫉妬の感情を見せます。しかしクララはトーニョを救済し解放するために彼の元を訪れ、「海で待っている」と伝えて彼の元を去る。クララは幻想的でトーニョを導く役割として描かれていますが、本物の旅芸人のように火を噴き、ロープに捕まり空高く高速回転する。その非映画的な能力と幻想的な描写が原始的でシンプルな寓話に華を添え、より魅惑的に見せています。クララ役のフラヴィア・マルコ・アントニオは女優ではなく出演作もこれ1本だけで、詳細な情報はありませんがどうやらパフォーマーのようです。

ラストでトーニョは海に出ますが、クララはいません。映画はそこで終わりますが、クララとは会えたのでしょうか。恐らく会えなかったんだと思います。なぜならクララはトーニョを救済し解放するためだけの役割であり、トーニョは分かれ道でこれまで進んでいない方向を選択し、ラストで海に出たのはそこが「パクーが夢見た世界=過去の因習から解放された世界」だったからです。つまりクララと会うために脱出したのではなく、あくまで過去の因習や運命から解放されるために脱出したのであり、クララとパクーがはそれを導いたと解釈するのが自然だと思います。

これは『セントラル・ステーション 』と『モーターサイクル・ダイアリーズ』の間に作られたウォルター・サレス監督の作品ですが、3作品はいずれも “南米の風土を背景に新たな世界を目にした人間が新たな倫理的価値観に気付いて運命を変えていく様” を力強くも幻想的に描いた素晴らしい作品ばかりでした。

 

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