シルビアのいる街で

原題 En la ciudad de Sylvia
製作年 2007
製作国 スペイン・フランス
監督 ホセ・ルイス・ゲリン
脚本 ホセ・ルイス・ゲリン
撮影 ナターシャ・ブライエ
出演 グザヴィエ・ラフィット、 ピラール・ロペス・デ・アジャラ

作家性のある監督とは常に何かの “フェチ” であり、作品にエゴやフェティッシュが滲み出ているものですが、ホセ・ルイス・ゲリン監督のこの作品はエゴとフェティッシュが滲むどころか、ほぼそれだけで表現された作品かもしれません。主人公の男性は街中の女性を近くから凝視し、スケッチブックに肖像画を描くことが趣味のようです。カメラも延々とカフェの女性たちの外見や仕草や表情を映し出す。ゲリン監督は人間、とりわけ女性に興味があるのでしょう。ただ、スケッチは確かに上手ですが主人公には芸術家としての空気は感じられません。なぜなら彼の視線や表情は芸術を指向する者のそれではなく、隠そうとしているものの、それは私的な欲望に駆り立てられたものだからです。だから彼は至近距離から延々と女性を追跡し、女性に恐怖心を抱かせる。

これは一体何を表現しているのでしょう? 主人公は過去に出会ったシルビアを追い求めているのですが、記憶を呼び起こすどころか記憶に囚われ、記憶を現実化しようとしているように見えます。本当は無理だと分かってそうしているのではなく、無自覚と妄信の狭間で悪意なく行動しているのです。本人は明確に記憶しているつもりでも、実ははっきりと覚えていないから街行くすべての女性にシルビアのイメージを重ね、僅かな仕草や表情をスケッチブックに刻もうとしている。まるで忘れてしまった記憶を呼び起こそうとするように。本当は “記憶からこぼれ落ちた女性を取り戻したい” という心理を表しているだけですが、ゲリン監督の “エゴとフェチ” というフィルターを通すと見事に “ストーカー癖のある病的な男” となるのです。

ではこの映画の何がすごいのかというと、”エゴとフェチ”(何度も言いますが…)をしつこいくらい徹底した映像表現以上に、映像を完璧に補完した “音響” の見事さでしょう。音響担当はアマンダ・ビリャビエハです。あの音響映画『Sirāt(シラート)』も担当しているように、映画に音響で命を吹き込むスペシャリストなわけです。同郷のゲリン監督とは2001年の『工事中』からタッグを組んでおり、最新作の『よき谷の物語』でもビリャビエハが音響も担当しています。石畳の足音、路面電車の走行音、カフェのグラスや瓶がこすれる音、車や自転車の走行音、遠くの会話、楽器の演奏、風の音、衣服や紙がこすれる音…など、この映画ではセリフが少ない代わりに様々な音がリアルに流れますが、これらは撮影時のものではなく個別に収録されたものです。クリアでリアルで自然な音が大きな音量で心地よく耳に届きますが、すべてが映像と完全に同期しているのです。観ている途中で、雑音が一切なく必要な音だけが聞こえていることに気付き、一体どうやって吹き込んだのかと驚きました。音によって “観客がその場にいるような空間” を作り出しているのです。効果音ではなく現地で映像とは別にサンプリングされた自然な音だけを用いて、一旦無音にした映像に再び命を吹き込む。見事な音響映画でした。

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