| 原題 | Tsotsi |
|---|---|
| 製作年 | 2005 |
| 製作国 | イギリス・南アフリカ |
| 監督 | ギャヴィン・フッド |
| 脚本 | ギャヴィン・フッド |
| 音楽 | ポール・ヘプカー、 マーク・キリアン |
| 出演 | プレスリー・チュエニヤハエ、 テリー・ペート、 ケネス・ンコースィ、 モツスィ・マッハーノ |
アカデミー外国語映画賞を受賞した初のアフリカ映画。
原作は1950年代のヨハネスブルグのソフィアタウンを舞台にアパルトヘイトによる貧困と閉塞感を描いたアソル・フガードの小説ですが、映画はアパルトヘイト後のヨハネスブルグ・ソウェトという設定で描いています。つまり、アパルトヘイト政策が終わって法的な平等が実現すると、今度は黒人内部で格差が広がり、結果として黒人の貧困層やスラムは今なお残り続け、窃盗や暴力が日常茶飯事の世界があることを描いています。ちなみにアソル・フガードは白人でありながら反アパルトヘイト運動を支持し、『ガンジー』や『キリング・フィールド』には俳優として出演している人物だそうです。
この映画はノリノリのラップや音楽によって乾いた空気感で演出しますが、描かれる状況は相当にシビアです。主人公はツォツィ=”チンピラ” と呼ばれており、本当の名前は本人も分かっていません。名前はアイデンティティにおいて非常に重要です。母親が愛情を持ってつけた名前かもしれないし、部族や家系的に意味を持った名前だったかもしれません。名前が無いことは家族と断絶し、一人で生き抜かなければならないことを意味するのです。だから、途中で自分の本当の名前を思い出すシーンが非常に重要なキーポイントになるのです。また、原作ではツォツィの顔立ちは「一握りの石ころのように無意味で、鏡を見ても目/鼻/口を組み合わせて意味のある人間を作り上げることができなかった」と描写されています。彼は名前だけでなく自分の顔すらも認識できず、“自分が何者か” がまったく分からない状態で育ってきたのです。だから “他者が自分を見る目や反応” によって自己を確立するしかなかった。周囲は自分のことをツォツィと呼ぶように、”暴力性に溢れた残虐な奴” として見ていました。だから彼の自己認識も “暴力性に溢れた残虐な奴” なのです。また、自己を認識できないのと同様に、他者を “感情の宿った命あるもの” と認識することも出来ません。人もモノと一緒であり、人に危害を加えるを躊躇しません。だから平気で人を刺し、撃ち、運転できないのに金のために車を奪う。しかし、赤ちゃんは別でした。車に残された赤ん坊を見て彼はうろたえ、その場に残すことも殺すこともせず、思わず持ち帰ります。自分のことも他人のことも “命あるもの” と認識できないのに、赤ちゃんに対する感情は人格よりも本能が勝ったのです。
そしてツォツィは赤ちゃんを世話するうちに母親の記憶と自分の本当の名前を思い出し、初めてアイデンティティが芽生えます。そこから彼は世界の見方や考えを変え、行動を変え、生き方を変えようとします。彼が自分の名前を思い出すのは、母親と最後に触れあった回想シーンでした。しかしその直後、彼は父親の暴力から逃れるために幼くして家出をする。原作小説では、母親はアパルトヘイト政策の悪名高い制度「パス法」によって警察に連行され、帰宅した父親は怒って妊娠中の犬を蹴り飛ばす。背骨を折った犬は隠れていたデイヴィッド(ツォツィ)の所まで這っていき、目の前で死産する。暴力によって「死が生まれる」様子にデイヴィッドは自分自身を重ね合わせて酷いショックを受け、暗い世界へ逃避するのです。原作でも映画でも母親の描写は非常に温厚に描かれていますが、本当は母親に捨てられた記憶を消すために自分の中で美化しているのかもしれません。周囲の厳しい社会環境から察するに、何となく後者の気もします。
俺が返したらまた来ていいか?
ツォツィは少しだけ人間性を取り戻し、友人たちのことを人間と認識して贖罪の心を示し、ミリアムに赤ちゃんを預けた際にこう言います。しかし観客は皆、彼は戻れないことを分かっています。ラストで彼は追い詰められますが、その後どうなったかは描かれません。もしかしたら警官に撃ち殺されたかもしれないし、逮捕されて収監されたのかもしれません。原作では赤ちゃんを助けるために取り壊し中のソフィアタウンに戻るが瓦礫の下敷きになり、謎めいた微笑みを浮かべながら死んでしまいます。赤ちゃんの生死は明確にされません。映画では赤ちゃんは助かり、ツォツィの生死は明確にされませんでした。
